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阿武隈 (軽巡洋艦) : ミニ英和和英辞書
阿武隈 (軽巡洋艦)[あぶくま]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい]
  1. (n,pref) light 
巡洋艦 : [じゅんようかん]
 (n) cruiser
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

阿武隈 (軽巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
阿武隈 (軽巡洋艦)[あぶくま]

阿武隈(あぶくま)は、日本海軍軽巡洋艦長良型の6番艦である。その艦名は、福島県宮城県を流れる阿武隈川より名づけられた。
== 艦歴 ==
阿武隈は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1924年(大正13年)に浦賀船渠で完成した。艤装中に関東大震災が起こり、造船所の施設が被害を受けたため、完成は1年以上遅延した。
1925年6月、第1艦隊第3戦隊に編入された。
1930年10月20日、大演習中に軽巡洋艦北上と衝突事故を起こし艦首を損傷、呉工廠で修理を行った。その際に、艦首をダブル・カーベチュア型(ダブル・カーブ型)に変更したが、この形状は長良型では阿武隈のみである。
1932年2月、第3戦隊(司令官:堀悌吉少将)に属し第一次上海事変に揚子江警備に従事した。
1933年5月、第7戦隊(司令官:鈴木義一少将)旗艦、1934年11月、第1水雷戦隊(司令官:町田進一郎少将)の旗艦となった。
1933年ごろ、甲板左右の8cm単装高角砲2基を13mm連装機銃2基に換装。
1936年5月、甲板左右の13mm連装機銃2基を25mm連装機銃2基に換装。
1938年2月、第2潜水戦隊(司令官:高須三二郎少将)の旗艦となり、翌年4月に中国沿岸で作戦に従事した。
1938年、魚雷発射管の換装を受け、後部の連装発射管2基を四連装発射管2基に交換、前部の連装発射管は撤去としてウェルデッキは兵員室に充てられた。この換装により酸素魚雷の発射能力を得た。太平洋戦争開戦以前に酸素魚雷を装備可能となった長良型は、阿武隈1隻であった。
1939年11月、第1水雷戦隊(司令官:河瀬四郎少将)の旗艦となる。
1941年11月、第1水雷戦隊は空母機動部隊警戒隊としてハワイ攻撃作戦に参加した。
1942年1月、ビスマルク諸島攻略作戦を支援し、さらにジャワ攻略作戦、インド洋作戦に参加した。5月に第1水雷戦隊は北方部隊(第5艦隊)に編入され、アッツ島攻略部隊旗艦として参加した。
1942年5月、佐世保工廠にて艦橋前部の保式13mm四連装機銃1基を、九三式13mm連装機銃1基に換装。
1943年3月、アッツ島沖海戦に参加、7月にはキスカ島撤退作戦に参加し、1,202名を収容し帰投した。
1943年4月、魚雷発射管直上付近のシェルター甲板左右に25mm三連装機銃2基を追加装備。重量補償として5番主砲を撤去。
1943年11月、横須賀工廠にて7番主砲を撤去し跡に八九式12.7cm連装高角砲を搭載する対空強化改装を受ける。
1944年3月、大湊にてカタパルトほか航空兵装の撤去。カタパルト跡地と後部甲板に25mm三連装機銃を追加装備。
1944年7月、横須賀にて後楼に22号電探を装備。25mm単装機銃および13mm単装機銃多数を増備。
1944年10月、内火艇2艇とカッター2艇をおろし25mm単装機銃10基を増備。
13号電探の装備はされなかったと推測される。
1944年10月、第5艦隊の遊撃部隊(21戦隊1水戦)として、スリガオ海峡より西村艦隊の後に続いて突入した。10月25日、スリガオ海峡海戦において敵魚雷艇群の攻撃を受け、魚雷1本が艦首第一砲塔の下に命中、第一砲塔員および弾薬庫に発生した一酸化炭素が電信室に漏入し電信員、暗号員の大部分を含む戦死者五十余名を出し、速力は低下した。旗艦は駆逐艦に変更になり、第一水戦司令官ならびに幕僚は霞に移乗した。阿武隈はその後撤退命令を受け駆逐艦を伴い戦線を離脱した。
夜明けとともにアメリカ軍の攻撃機、雷撃機による攻撃を受けた。攻撃は同じく損傷を受け待避していた重巡洋艦最上に集中、最上は沈没した。その後阿武隈はP-38戦闘機による機銃掃射を受けるも対空機銃により応戦、これを撃退する。
翌26日、ミンダナオ島ダピタンで応急修理を行い、駆逐艦潮とともにコロンへ向け出航した。その途上、午前十時ごろにB-24爆撃機30機の攻撃を受けた。まず対空砲火の届かない高度3,000メートル以上からの高度爆撃を受けその後700メートルからの爆撃を受け、この攻撃で250kg爆弾により直撃弾3発、至近弾4発を受け上甲板の人員は全滅、艦橋の人員も大部分が負傷または戦死。機関も停止し火災も発生した。米軍機はこれをみて攻撃目標を潮に変更した。
阿武隈は停止後も必死の応急処置によりなんとか浮かんでいたが、発射管の魚雷(予備魚雷との証言もあり)が火災により誘爆し、艦体に亀裂が生じ重油が流出した。これに及んで総員退去命令が下され生存者は艦首より退艦、阿武隈は3時間後に艦首を立てた状態でネグロス島沖に沈んだ。
戦死者は512名。阿武隈の生存者はなんとか米軍機の攻撃を回避した潮に救助され、全員マニラへ送り届けられた。
沈没位置:北緯9度9分 東経121度54分 26日 午後0:42

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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